1960年代のフジテレビ、TBSは、土曜8時の枠にドラマを放送していた。
しかし、ドラマでは、視聴率が取れず先に動いたのは、フジテレビでした。
フジテレビは、1968年7月に当時人気が出始めたコント55号を起用して「コント55号の世界は笑う」を開始した。
当時、コント55号は、フジテレビのお昼の番組で人気が出だしたばかりのコンビで、この番組がコント55号の人気に拍車を掛けました。
フジテレビとしても、視聴率30%を出すドル箱番組となり大きな自信をつける番組となりました。
その頃、TBSもドラマでの視聴率が取れない事に苦慮し、更にフジテレビの世界は笑うが大ヒットした姿をみて決断をするのです。
フジテレビと同じくドラマを廃してバラエティー番組を制作し、世界は笑うに戦いを挑みました。
この時生まれたのが、ドリフターズの「8時だョ!全員集合」でした。
当時、ドリフターズは、元々のバンドとしての路線からお笑いの路線に切り替わる時期でした。
リーダーのいかりや長介をはじめとするメンバーは、この頃にはそろっていましたが、いかりや自身は、音楽の才能に関しては劣るメンバーだと思っていたらしく、メンバー変更も視野に入れていた様です。
しかし、皮肉にもこと、お笑いに関しては、当時のメンバーが最高のパフォーマンスを出す事となります。
お笑い番組などに出演しつつも、コント55号には中々勝てないドリフターズといった位置でした。
それが、1969年10月に始まる8時だョ!全員集合で大きく立場が変わります。
8時だョ!全員集合は、コント55号を見ていた視聴者の心をつかみ、後に「お化け番組」と言われるまでになりました。
そして、世界は笑うと8時だョ!全員集合の戦いは、土曜日の夜8時の視聴率戦争の幕開けでもあったのです。